演奏審査・音楽講師育成
新任講師研修と全講師の契約更改は《チューニングとメンテナンス》。演奏前にしっかりチューニングをすれば、逆にピッチに縛られず自由にのびのび演奏できる。それが研修。年に一度の契約更改は講師のメンテナンス、しかも「やる気」の。
「自信」も「信頼」も英語やフランス語では同じ言葉。その意味を考える…自信のある人は相手の懐に飛び込んで信頼関係を作り易い。また「自信」は自分への信頼であり、自分を信頼できない人が他人から信頼されたり、他人を信頼したりするのは難しい。
僕は演奏を審査する際、400の演奏について全ての人に対し、その人だけのコメントを言うことにした。同じ曲の同じような演奏であっても、違う人に同じコメントを言うのは怠惰だと思う。
意見を同じくする仲間が喜ぶ文章は二流。対立する相手をも共感させるのが一流の文章。同じ事を伝えるのなら、相手の気持ちを損なわないのが得策。だから怒りも嘆願もしない。長々と書かない。あたかも自分が弁護士になった積りで作成する。
作曲家が演奏の審査を務める事は多い。その意義は何か。第一に、和声や構成を把握しながら聴く耳がある。確かにそうだ。しかしそれ以上に僕はこう考える。
常に深すぎるビブラートをつける歌い方…私はそれを好まない。なぜか。第一に、ピッチが不明確になる。第二に…、第三に…
作曲家である僕にとって演奏批評の仕事はあくまで副産物に過ぎないが、実はそれが作曲にも影響を与える。そのまま「作曲とはこうあるべき」と、自分に跳ね返ってくる 。
お客さまが語る自身の夢や希望に耳を傾けつつも、感情的な部分は排除し、冷静に可能性を探る。音楽講師との面談も同様、良かれ悪しかれ僕は感情を挟まない。言うべき事を一言で面白く言えるか、さもなくば何も言うべきことを見出せないか、どちらかだ。
音楽の指導者は音に敏感であること。つまり耳が良いこと。さらに音楽を図形や絵などのイメージに置き換えたり、言葉にしたり、感嘆の声や身振りでアピールできること…これらが熱意をもって自然にできたなら《名教師》―もちろん実際はこれほど単純では無い。
これまでに様々な初見課題曲を作った。初見課題曲では単にソルフェージュ力を見るだけに留まらない。プロの音楽講師として、このくらいは当然初見で弾けなければならない、という常識的な技術レベルに設定している。
代官山音楽院の中陣孝男さんが他界されて2ヶ月。昨年のクリスマスの晩、肺梗塞により亡くなった(51歳)。20年前僕が楽器店に入社した頃、中陣さんはエレクトーン講師のチーフだった。代官山音楽院の設立に携わり、軌道に乗ってから僕を講師に誘って下さった…
ピアノ講師に加え、今年から声楽・管・弦の講師の契約更改も行うことになり、全7日間立ち会った。僕の仕事は演奏を聴いてコメントするだけ。5分以内の名作(の一部)を時には一日に十何曲も聴く。自分の作曲も打楽器の曲が完成した。
演奏の能力と話す能力には、かなり関連があるようだ。また、筆跡は性格を左右するらしい。
代官山音楽院の僕のクラスではこの1年、週2日の午前中、月3回ずつ計72回の授業をした。理論面では調号や音程の数え方から始め、和声の問題集を1冊終え、ソナチネの作曲まで。1月からは指導法の実習も数回。
バッハ「無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第2番 イ短調 第1楽章」終盤は7の和音の連鎖。7の和音というのはじっとしてはいられず、はやく普通の三和音に戻ろうとする。それなのに7の和音がまた別の7の和音、それもまた別の7の和音…とドミノ倒しのように続いていく。