家族・子供の頃
湯河原の施設で暮らす88歳の母を訪ねた。3年振り以上になる。施設のオーディオ室で30分、母一人のためにチェロを弾いた。
学生時代、作曲の佐藤眞先生から父の事を聞かれ、子供の頃父から聞かされた事を話すと、(心配性で小言の多い点が)「モーツァルトのお父さんみたいだね」と笑われた。
自活していた弟の容体が急変し、救急車で筑波の病院に運ばれ、数時間後の10月16日(月)午前4時15分、弟(52歳)は息を引き取りました。
小学生の頃、将来マンガ家や作家になりたいと強く思っていた。4年生の夏休み、藤子不二雄の「パーマン」のキャラクターで小冊子1冊のマンガを描き、中・高校生の頃、「マンガ家入門」の本を2冊ほど精読し…。
内臓の応急処置を受け入院していた弟が一旦退院した。医師が勧める根治に向けた手術を断り、長くない余命をこれまで通り一人で生きることを望んだ。
先月中旬、筑波の病院から、長年疎遠にしていた弟が深刻な内臓の疾患で入院したとの連絡を受けた。僕は保証人となり、病院と、弟の居住地である土浦の市役所を往復したりした。
母の居室の押入れの奥から、封をしたままの平べったい段ボール箱が3つ出てきた。二つは額装した母の書。その一つ、横長のものをもらった。額装は日曜大工の様で、父の手によるのだろうか。
「チャイルド・エイド・アジア~Friendshipコンサート2017」に行った。日本と東南アジアから選ばれた子供達によるチャリティーコンサート。
父が死去して一年、家族間は思いやりに満ちた関係に変わった。物への執着を捨て、母の居室をすっきり片付ける。快適さや幸せのための節度ある出費は惜しまない。変わることが父の死を生かすこと。
湯河原まで母を迎えに行き、自宅に招いた。母が自宅に来るのは5年振り。「用事も無いのにただ行くだけ、遠足みたい!」と喜んでくれた。
父の死後すべての手続きをほぼ終えた。生命保険(複数)、預金残高の確認(複数)、ネット銀行(複数)、投資信託(複数)、クレジットカード(複数)、携帯電話(母のも父名義)、インターネット解約、年金、共済組合、健康保険、病院への支払い…
父(83歳)は急性リンパ性白血病のため、11月4日午前10時21分、小田原の入院先で息を引取りました。
小田原は小学校4~5年生の頃、大場から私鉄とJRを乗り継ぎ、ピアノのレッスンに通った地。当初は母が付き添い、車中で手製の握りずしを食べさせてくれた事もある。駅からデパートのある大通りを通り、小田原城下の公園を横切り…
お盆休みの午後、両親に会いに行った。父は訥々と詳細に長々と話す。父母の今の病気の事、施設での生活の事、夜は二人で酒を飲むこと、ハーモニカを覚え始めた子供の頃の事…それを僕と母が必要最小限の相槌で傾聴していると、父は機嫌が良い。
元日、湯河原に転居して3年目の両親に会いに行った。聞きたいこと、言いたいことは山ほどあったが、年々会話の質が平板になっていく。それでも時折見せてくれる親の笑顔が最大の励みだ。
今年は両親が拙宅に来てくれるとのことで、プレゼントのサンダルを用意していたが、中止となった。父の腋に出来たリンパ腫の摘出手術をすることになったからだ。
元旦、湯河原の「サービス付き高齢者向け住宅」に住む両親に会いに行く。父は余生の生き方について語り出し、母を思いやる発言をしたので、ここぞと僕は拍手した。帰り際、近くの神社に3人でお参りした。
湯河原へ、両親の新居を訪ねた。2部屋に83個の段ボール箱を運び込み、身動きも儘ならない状態から片づけたとのこと。父が大工仕事で作った棚、棚、棚…母がすいかを出してくれた。
両親の終の住処となる湯河原の施設へ、入居の契約に立ち会うために行った。築26年のレトロなリゾートホテル風の大きな施設だ。父から母への、最高のプレゼント!
僕に姉が出来た。元日の晩、実家の近所にお住まいの僕の12歳上の女性を親が食事に招き、僕とその女性は姉弟の契りを交わした。楽しい帰省だったが、帰省もこれが最後。
例年駅まで車で迎えに来てくれる父も高齢になり、夜の運転は控えるとの事で、大晦日は私鉄に乗り継ぎ実家まで歩いて来るよう言われた。私鉄を利用するには大回りし、本数が少ないので乗り換えに20分待つ。そこで小高い山の駅から下り、夜道を歩いて帰省した。
両親が自宅に午後の4時間滞在して会食。母は先日、慣れない電動自転車でひどく転び足を痛めたが骨折には至らず、立派なフルーツを持って来てくれた。シャワーを使ってもらい、ビールといつものカレーで乾杯。父母はもうすぐ余生の域に入る。
大晦日は母が料理した天ぷらそば。ビールが入ると父は陽気になり、子育てを顧みず自分の趣味に没頭した父の祖父のこと、学生時代のこと、就職、転職、結婚、父の母のことなどを話した。明けて元日と2日の昼間は3時間ほど一人で散策。
父は饒舌に自分の子供の頃の話をし、母は初めて聞くかのように巧みに相槌を打った。父の兄のうち二人は、一人はラバウル、もう一人はガダルカナルで戦死した。父はボランティアでハーモニカを演奏しているが、「さらばラバウルよ」だけは吹けない、と言う。
元日は厳しい寒さの中、風が吹きつけた。空には音がある!冬は木々の枝の形状を観るのに絶好の季節。自然界はフラクタル幾何学の作品に満ちている。翌二日は穏やかな陽気に包まれ、富士山に向かって大場川沿いに起伏の多い田んぼ道を歩いた。
今年金婚式を迎え、スイスのツアーに参加した父母が来てくれた。僕が作ったカレーは「プロ並み」と父。切っただけのトマトまで「さすが東京!」…母から写真を見せてもらいながら臨場感に満ちたスイスの話を聞く。時々父が話したがるのは状況説明と推理。
父はモールス通信も好きで、機材の多くを自作した。母はその事を「トンツー」と言っていた。僕が小学4年生頃には、父考案の語呂合わせでモールス信号を覚えさせられた。
元日は幼少時に過ごした柏谷を散策した。柏谷公園に「柏谷百穴」と呼ばれる横穴群がある。小高い丘の側面に何十もの洞穴が開いている。いつもの帰路とは10数メートルほど違うルートを選んだら、ふもとは全く見知らぬ田圃と竹林しか無い風景だった。
6年振りに両親が車で自宅に来た。布団持参、夜は外食をおごってくれる。母は、父に影響されて始めたハーモニカが今や書道よりも好きだ、とか、自分は人前で吹くとき上がるのに父は平気だとか話した。しかしどんな話も、いつの間にか必ず書道展の方に行く。
田んぼの稲が青々と育ち、風になびく。泥の匂い、微かな農薬の匂い…高校卒業までこの空気の中、登下校した。幼児期を過ごした借家の前を通り、丘を登った。実家に戻ると父が陽気に色々話した。それを大人しく聞く僕は、子供の頃に戻ったようだった。